2025年7月29日火曜日

.1329~音楽と対話が交差する場所──DEADPOP FESTIVALの魅力とMAHの哲学~


灼熱の太陽の下、川崎の空に響き渡る轟音。雑多で自由で、時に攻撃的で、それでもどこか温かい(個人的なの感想です)──そんな音楽が一堂に会する場、それがDEADPOP FESTIVALだ。ジャンルや世代を越えて集まるオーディエンスの熱狂と、アーティストたちの本気がぶつかり合う空間には、音楽による“共生”と“対話”の種が確かに根付いている。

このフェスを主催するSiMのMAHは、ただのフロントマンではない。彼はジャンルを越えて様々なアーティストを招き、独自のカラーを作り上げてきた。その選定には明確な意志と戦略がある。ロック、メタル、パンク、ヒップホップ──あらゆる音楽が混ざり合い、共鳴し合う場を実現することは、MAH自身が長年世界へと進出し続け、音楽と格闘してきた証であり、SiMとして築いた信頼と覚悟の結果だ。

コロナ禍の開催だった2021年。あのときMAHは叫んだ。

「オリンピックは1万人入れてるのに、こっちは5000人。ちゃんとルール守ってやってんだよ。」

その言葉はただの報告ではなく、音楽の場が「真面目に、誠実に」運営されていることへの誇りであり、社会的な場としての責任の表明だった。音楽が軽視されがちな中で、「俺たちにも守るべきものがある」という姿勢を明確に打ち出した瞬間だった。

感染対策、人数制限、綿密な運営。それでも「音楽を止めない」ために彼が掲げた矜持は、多くのファンの心を震わせた。

観客同士、アーティスト同士、そして主催者との間に芽生える“共感”や“敬意”こそが、このフェスの真価であり。やはりライブである。是非、生で観て、聞いてほしい。

2025年のフェスに参加して強く感じたのは、DEADPOP FESTIVALが「信用できる場」であり続けていること。そして、それを率いるMAHの姿勢が、一貫して“真面目なフェスづくり”に向いていること。
(ただ、サークルモッシュ、ダイブは非常に多い。主催者は「悪魔」なので。)

そして、2025年には「来年は春開催に変更する」と明言。2日参加したが、たしかに暑すぎた。
ただ、教育現場で働くものにとって入学式前は、忙しすぎる。

でもチケットはもう購入済みだ。

春開催に向けて、どんなアーティストが集い、どんな新しい音楽体験が生まれるのか。MAHの音楽への愛と対話への姿勢を通して、これからのDEADPOP FESTIVALがさらに豊かで多様な場になっていくことを期待したい。

2025年7月20日日曜日

.1328~ 教室から見る2025年参院選──「民主主義の沈黙の声」と若者たち~

齢45なのですが、『「若者が」参政党を選んだ』というニュースを聞いたとき、私は違和感を覚えた。  
それは参政党が声高に述べてた「日本人ファースト」という言葉の響きにあるのかもしれないし、投票率急上昇という現象の背後に潜む“沈黙している4割”の存在を感じたからかもしれない。

民主主義とは、誰の声を聞こうとする営みなのか?

今回の選挙で確かに投票率は57%まで上昇した。  
街頭演説がSNSで拡散され、10代〜30代の一部が参政党を支持した背景には、“わかりやすさ”と“怒り”があるように思える。  
その一方で、投票に向かわなかった4割の人は、いったいどんな言葉を待っていたのだろう。

「日本人ファースト」に違和感を覚えた理由

教育現場で働く私は、“誰も置き去りにしない”という理念に立っている。  
「日本人」という枠が持つ曖昧さ。そこから排除されるかもしれない子どもたち。  
多様性を掲げるカナダやスウェーデンの教育制度は、「違いは分断ではなく資源だ」と語る。  
それに比べ、私たちの社会はまだ“関係ある/ない”の境界線に揺れている。

若者の政治参加は希望か、警鐘か

投票した若者は希望だろうか?  
一方、SNSに反応はするのに、投票所へは向かわない層も多い。  
「いいね」と「投票」──この間に横たわる現実的な距離は何か?  
制度への不信感、生活との優先順位、情報への接続性。その一つひとつが「民主主義の温度」を左右する。

教室で問いたい:「聞こえていない声は、誰の声か」

政治的リテラシーは、正解を教えることではない。  
それよりも、「どう問いを立て、誰の声に耳を傾けるか」を実践すること。  
授業で「なぜ投票しない人がいるのか」と問えば、子どもたちは沈黙の意味を考え始める。  
問いはいつも、未来への鍵になる。

2025年7月19日土曜日

.1327~教室の多数決が政治への無関心を育てている?~政治に無関心な国民はどこで育ってきたのか~


「多数決で決まったから、それに従いましょう」

 日本の教室では、そんなフレーズが当たり前に使われています。けれども、この言葉の裏側にあるのは、本当に民主主義なのでしょうか?
 元麹町中学校校長・工藤勇一氏は「教室における安易な多数決が、政治への関心を育てない要因になっている」と指摘します。

安易な多数決が生む“乱暴な民主主義”

 「団結を目標にしよう」という学級会は、一見協力を促すようでいて、団結できない子の声を置き去りにしてしまう危険性を含んでいます。
 社会には障害を持つ人や少数派が存在します。にもかかわらず、話し合いの場で多数決に偏った決定を繰り返すことは、排除の空気を再生産してしまう可能性があります。

特別活動が育む“合意形成と実践”の力

 文部科学省の学習指導要領でも、特別活動では「合意形成と実践」が強調されています。
 A案とB案で意見が分かれた時こそ、民主主義的な話し合いが必要になります。誰がどの案に困っているのか、なぜ困るのかを掘り下げる時間が、政治への関心と関与を育てる教育につながるのです。

教室で育む折り合いの力

 話し合いとは、単なる意見交換ではなく、違いを受け止めたうえで新しい答えを探すプロセスです。そこで大切なのが「折り合いの力」です。
具体的には:
合体させる:異なる案の良い部分を融合して新しい案を作る
折衷案を練る:互いの希望を調整して妥協点を探る
譲る判断:こだわりを見極め、目的に照らして譲る姿勢を持つ
目的に戻る:「何のための話し合いか?」を再確認する
 これらの力を日常の教室で育てることが、将来の市民意識を培う土壌になります。

民主主義を育てる場所としての学校

 議会制民主主義は時間も手間もかかります。それでも、子どもたちが「納得するまで話し合う経験」を積むことで、大人になっても政治に関心を持つ可能性は広がります。

 教室は民主主義を学ぶ最初の場所。教員はその設計者です。話し合いの問い方・進め方を少し変えるだけで、教育の質はぐっと変わります。

まとめ:誰一人置き去りにしない話し合いから未来が始まる

 多数決には便利さがあります。しかしその使い方によっては、誰かの声を排除する結果につながることもあるのです。
「折り合いをつけながら納得する話し合い」を、日常的に積み重ねること。それこそが政治を身近に感じ、より良い社会を自分たちでつくろうという力につながるのではないでしょうか。

明日は投票行って外食してきます。

2025年7月15日火曜日

.1326~演説:未来への投資としての教育改革~

私は今、教育の未来を語りたい。  
それは子どもの未来だけでなく、わたしたち社会全体の未来に直結する課題です。

まず、問いたい。  
なぜ企業では新人を丁寧に育てるのに、教育現場では若手教員が初日から孤独に子どもの前に立たねばならないのか?  
なぜ志と熱意だけで、制度の不備を乗り越えることを期待されるのか?

教育は根性ではなく、仕組みで支えるべきです。  
少子化だからといって教員の質を落としてはならない。むしろ今こそ、丁寧な人材育成が必要です。

🛠️ 初任者には実践的な研修を。  
👥 学びを共有できる同僚の支えを。  
💼 安定した待遇と職場環境を。

教育は費用ではありません。  
それは、未来への投資です。

あなたと、そしてすべての子どもたちの未来のために。  
ここから教育を変えていきましょう。

…。

選挙の時って、「教育」について語る人いないですよね?
教育政策って、影響が現れるまでに時間がかかる。だから、目に見える成果が出るまで何年もかかるので、短期的な成果を重視する選挙ではどうしても注目度が下がりがち。また、子どもを直接育てる層(保護者や教育者)以外には切迫感を持たれにくいこともあるのかなぁと。演説風に書いてみたけど、はたして何票集まるのだろうか。

教育について語ることは、未来について語ること。  
この小さな対話が、いつか大きな波となることを願って。
声がでかけりゃいいわけではない。