2026年5月26日火曜日

.1339~僕らが『ハガレン』の「等価交換」を卒業した後に、荒川弘が教えてくれたこと。~



こんにちは。こんばんは。おやすみなさい。おはようございます。いってらっしゃい。おかえりなさい。3児の父です。


今回は、私が個人的に「ストーリーのオリジナル性とコンセプトがずば抜けている」と感じ続けている漫画家・荒川弘先生について、少しディープな視点から語ってみたいと思います。

​『鋼の錬金術師』の世界的ヒットから始まり、農業高校のリアルを描いた『銀の匙 Silver Spoon』、そして現在連載中の伝奇アクション『黄泉のツガイ』。一見、ジャンルはバラバラに見えますが、実はすべての作品の根底には「ある一貫した冷徹なコンセプト」が流れていると思ってます。

​今回は、文芸批評家・宇野常寛氏が提唱する「ゼロ年代のカルチャー批評」の補助線を引きながら、荒川弘作品がなぜこれほどまでに私たちの心を掴んで離さないのか、その「オリジナル性の正体」について書いてみます。

​1. 「等価交換」という呪縛からの卒業――『ハガレン』が描いた成熟

​『鋼の錬金術師』の代名詞といえば、「等価交換(何かを得るには、同等の対価が必要)」という法則です。

​2000年代(ゼロ年代)のフィクションを振り返ると、世の中は「絶対的な正義(大きな物語)」が崩壊した時代でした。何が正しいか分からない混沌とした世界の中で、当時の多くの作品は「引きこもり(セカイ系)」に走るか、あるいは「生き残るために他者を蹴落とす(決断主義)」という極端なサバイバルに走りがちでした。

​そんな時代に、荒川先生が提示した「等価交換」は、世界の手触りをシビアに認識するための「冷徹な大人の倫理」でした。甘えは一切通用しない。奇跡は起きない。自分が動いた分しか世界は変わらない――。

​しかし、この物語の本当に凄いところは、主人公のエドワードが最終的に「等価交換の法則を疑い、それを超えていく」点にあります。

世界は冷酷なシステム(等価交換)で動いているかもしれない。けれど、人間は「もらった10に対して、自分の1を上乗せして11にして返す」ことができる。この、システムに回収されない「人間の意志と微かな連帯」こそが、ゼロ年代的な閉塞感を打ち破る、力強い「社会性の回復」の物語として、批評の文脈でも高く評価されてきたポイントです。

​2. ファンタジーから「現実のシステム」へ――『銀の匙』の泥臭いリアリズム

​『ハガレン』の次に荒川先生が描いたのが、打って変わって現代の農業高校を舞台にした『銀の匙』でした。このシフトチェンジには当時驚かされましたが、コンセプトの軸は全くぶれていません。

​ここで描かれるのは、錬金術というファンタジーではなく、「経済と生命(命を育てて、殺して、食べる)」という、私たちが生きる現実の絶対的なシステムです。

​主人公の八軒くんは、都会の競争社会からドロップアウトして農業高校にやってきます。そこで彼が直面するのは、「自分が名前をつけて可愛がった豚(豚丼)が、肉になって出荷される」という冷酷な現実です。ここでも『ハガレン』の遺伝子は生きています。命の価値を美化せず、かと言って冷笑もせず、泥臭く「システムの一部として生きる覚悟」を描く。

​私たちが生きる現代社会の構造へのサバイバルガイドとして、これほど誠実な作品はありませんでした。

​3. 『黄泉のツガイ』が描く、新たな「境界線」と不条理

​そして現在、満を持して連載されている『黄泉のツガイ』。

閉ざされた「東の村」という土着的な共同体と、高度に発達した現代の「下界」。この二つの世界の衝突から物語は始まります。

​これまでの作品が「システムを受け入れ、どう生きるか」だったのに対し、『黄泉のツガイ』は「見えていなかった不条理なシステム(血筋や、ツガイという異形)がいきなり日常に侵入してきたとき、どう対応するか」という、極めてモダンなテーマに進化しています。

​勧善懲悪ではない、誰にとっても「それぞれの正義と生きる理由」がある中で、主人公のユルがどのように世界の「境界線」を突破していくのか。そのオリジナルな設定と先の読めない展開は、まさに荒川弘イズムの最先端と言えます。

​まとめ:荒川弘作品という名の「骨太な人間賛歌」

​宇野常寛氏をはじめとする評論層がポップカルチャーに求めるのは、単なる現実逃避のエンタメではなく、「このクソみたいな現実(システム)を、僕たちはどうやって生き延びればいいのか」という批評性です。

​荒川弘先生の作品は、その答えを説教臭くなく、最高のエンターテインメントとして差し出してくれます。世界は残酷で、不条理で、等価交換だ。けれど――だからこそ、人間が足掻く姿には価値がある。

​僕が荒川作品を「面白い」と感じてやまないのは、読んだ後に「よし、僕も自分の現実の足元を固めて、明日を生きよう」と思わせてくれる、圧倒的な駆動力がそこにあるからなのです。

2026年5月4日月曜日

.1338~涙も転倒もゼロ!「バランス」から始める4つのステップで補助輪なし自転車が乗れました~

 気がついたら下の娘も小学2年生。

「やべ、自転車乗れない」

慌てて練習にいこうと思っても

「後ろから支えるのも腰が痛くなる」

「小2の娘も恐怖心から1度挫折した過去がある」

地元の小学校では交通安全教室という「自転車に乗って」交通ルールを学ぶ時間があり、乗れることが前提の学習があります。

さあ、果たして乗れることができるでしょうか。

助けてぇ~NotebookLm ~

…。












バランスが大事なんですって。

今流行りの「ストライダー」でバランスが取れれば必然的に乗れるようになります。

なりました。

ものの数時間。1日時間があればきっとできるはず。試行錯誤を親子でやることの尊さ。

できた瞬間のプライスレス感。後は気をつけて路上研修です。

2026年2月10日火曜日

.1337~ 「教員冥利に尽きる」の前に──子どもの成長と教育の本分を考える~

web記事で見かけた、中学校の部活動について語るある教員の言葉が、心に引っかかりました。

「いい加減だった子が学校生活をしっかり送れるようになり、野球のプレーまで変わった。その瞬間に立ち会えた時は教員冥利に尽きる」

この言葉自体は、現場で子どもと向き合ってきた教員の実感として理解できます。  

子どもが変わる瞬間に立ち会えることは、確かに教育の醍醐味です。

しかし同時に、私はどうしても違和感を覚えました。

それは、子どもの成長が「教員の達成感」の材料として語られてしまっているように感じたからです。

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○子どもの成長は、教員の“成果”ではない

子どもが変わる瞬間は、本人の内側で何かが芽生えた時です。  

教員はその環境を整えるだけで、主役はあくまで子ども自身。

にもかかわらず、「冥利に尽きる」という言葉は、子どもの変化を教員の手柄として回収してしまう危うさを含んでいます。

教育は本来、  

「子どもが自分で考え、自分で選び、自分で責任をもてるようになる」  

ための営みと思っています。

そのゴールは、野球のプレーが良くなることでも、  生活態度が改善することでもありません。

もっと先──社会に出てからの長い人生にあります。

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○部活動は“目的”ではなく“手段”のはずなのに

この教員はこうも語っています。

「学校生活をきちんとやりなさい。それが野球にも表れるぞ」

ここには、  

生活態度の改善 → 競技力向上  

という因果が前提になっています。

しかし、これは本来逆です。

- 学校生活を整えること  

- 自分の行動に責任を持つこと  

- 他者と協働すること  

これらはすべて、  

子どもが社会で生きるための基礎であって、野球のための手段ではありません。

部活動は、子どもの成長を支える“ひとつの場”にすぎない。  

それがいつの間にか、部活の成果が教育の中心に置かれてしまう。

この逆転こそが、現場の働き方を歪め、子どもの成長観を狭めてしまう原因になっていると思います。

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○教員の本分はどこにあるのか

教員の専門性は、  

- 授業  

- 学級経営  

- 教育相談  

- 子どもの人生の基礎を支えること  

にあります。

部活動はその延長線上にあるだけで、教員の存在意義を支える“主舞台”ではありません。

にもかかわらず、  

「しんどくても続けている」「その瞬間があるからやめられない」という語りは、  

部活を教員の自己実現の場にしてしまう危険をはらんでいます。

それは、  

- 過剰労働の美談化  

- 部活をやらない教員への圧力  

- 子どもの成長の競技化  

につながり、制度改革を阻む力にもなってしまう。

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○子どもの成長は、もっと多様で、もっと長い

中学生の成長は直線的ではありません。

- 伸びたり止まったり  

- 失敗したり戻ったり  

- 部活以外の場で花開いたり  

そんな揺らぎの中で、  

少しずつ「自分で考え、自分で選ぶ力」を育てていく。

その長いプロセスを支えるのが教育であり、部活動はその一部にすぎません。

だからこそ、  

子どもの成長を“競技の成果”で語ることには慎重でありたいのです。

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○最後に──現場の教員と保護者へ

私は、部活動に熱心に取り組む教員を否定したいわけではありません。  

むしろ、子どもに寄り添い、時間を惜しまず向き合う姿勢には敬意があります。

ただ、  

子どもの成長を教員の達成感で語る構造  

部活動が教育の中心になってしまう構造  

には、立ち止まって考える必要がある。

子どものゴールは、  

今日の練習でも、今週の試合でもなく、  

もっと先の人生にあります。


その視点を忘れずに、  

教育の本分を取り戻す議論を、  

現場の教員も保護者も一緒に進めていけたらと思います。

2026年1月11日日曜日

.1336〜ライブ撮影アリ?ナシ? 変わりゆく文化と、演者が大切にしているもの〜

ライブ撮影文化の変化と、

HEY‑SMITH猪狩 × 

coldrain Masatoの“価値観の違い”

私もご多分に漏れず、「OK」の部分だけ撮影したことあります。

ライブ会場での撮影をめぐる議論は、ここ数年で大きく変化してきました。  

Xは本当に「対立」「炎上」「○○派vs○○派」好きですよね。

特に日本のラウドシーンでは、HEY‑SMITHの猪狩秀平とcoldrainのMasatoが語った“撮影に対するスタンスの違い”が話題になり、ファンの間で「対立」と表現されることもありました。

しかし実際には、両者が本気で衝突したわけではなく、ライブ撮影文化の変化を背景にした価値観の違いが表に出ただけです。

この記事では、ライブ撮影文化の変遷と、二人のスタンスの違いを整理します。


■ ライブ撮影文化はどう変わってきたのか?

● ① 〜2010年代前半:撮影NGが当たり前

日本のライブハウス文化では、長く「撮影禁止」が基本でした。  

理由は以下のようなものです。

- その場の空気を大切にする  

- 演者が見えなくなる  

- フラッシュや光が演奏の妨げになる  

- スマホが普及していなかった


この価値観は、HEY‑SMITH猪狩のスタンスに近いものがあります。

確かに実際スマホで前が見えない。演者、その場の空気に違和感を覚えました。

● ② 2010年代後半:SNSの普及で“撮影OK”が増える

InstagramやTwitterの普及により、  

「ライブの一部をシェアする」文化が広がるようになりました。


- 海外アーティストは撮影OKが一般的  

- 日本でも「一部撮影可」「曲限定」などが増える  

- SNSで拡散されることが宣伝になる


coldrainのMasatoは海外経験が長く、  

“撮影はファンの自由であり、広がることはプラス”という考えを持っています。

こちらも演者の広報にもつながるし、アリだよなとも思いました。

● ③ 2020年代:コロナ禍でさらに変化

無観客配信ライブが増えたことで、  

映像でライブを楽しむ文化が一気に一般化しました。


その結果、


- 撮影OKのフェスやバンドが増加  

- 一方で「スマホの海で演者が見えない」という不満も増加  

- 賛否がより分かれるように


■ ラウドシーン特有の事情


ラウド系はモッシュやダイブがあるため、  

スマホを掲げると危険が増すという現実があります。


● 撮影に肯定的な立場(Masatoなど)

- 海外では撮影が当たり前  

- SNSで広まるのは宣伝になる  

- ファンの自由を尊重  

- ライブを“共有する文化”として捉える


● 撮影に慎重な立場(猪狩など)

- スマホが危険につながる可能性  

- その場の熱量を大切にしたい  

- スマホ越しだと“ライブの本質”が薄れる  

- 演者から見て光が気になる


どちらもライブを愛しているからこその立場です。

■ なぜ「対立」と言われたのか?

- 猪狩は「ライブはその場で楽しむもの」という考え  

- Masatoは「撮影は文化としてアリ」という考え  

この違いが、ファンの間で誇張されて  

“意見がぶつかった”と語られただけです。

実際には、

- YouTubeで一緒に笑いながら話している  

- TRIPLE AXEとして普通に共演している  

- SNSでも普通に絡んでいる  

つまり、対立ではなく価値観の違いにすぎません。

■ まとめ

- 日本のライブ撮影文化は、この10年で大きく変化した  

- SNS時代・海外文化・コロナ禍が影響している  

- 猪狩とMasatoは“対立”ではなく、スタンスの違いを語っただけ  

- ラウドシーンは特に賛否が分かれやすい  

- どちらの立場も「ライブを大切にしたい」という思いは同じ

4月のDEAD POP FESTiVALに参加予定の自分としては、その場の空気を楽しみつつ、演奏だけでなくステージに立つ彼らの人間味や想いまで感じたいと思っています。

2026年1月3日土曜日

.1335〜子どもたちに世界情勢をどう伝えるか―「事実」よりも「構造」を伝えるという考え方―〜

世界では、毎日のように大きな出来事が起きています。  
戦争、対立、災害、政治の変化。  
ニュースを開けば、子どもたちが不安になりそうな言葉が並ぶことも少なくありません。

では、こうした世界の動きを、私たちは子どもたちにどう伝えればよいのでしょうか。  
その答えのひとつが、「事実よりも構造を伝える」という考え方です。

■ 事実を並べても、子どもには“重すぎる”
「どこで戦争が起きた」「どの国が攻撃した」  
こうした“事実の羅列”は、大人にとっては理解の助けになりますが、子どもにとってはただの不安材料になりがちです。

小学生にとっては、  
- 国名  
- 政治家の名前  
- 軍事行動の細部  
といった情報は、意味をつかみにくいからです。

事実をそのまま伝えると、  
「怖い」「よくわからない」「自分には関係ない」  
という反応になりやすい。

■ 子どもに必要なのは“世界の仕組み”という安心の土台
そこで大切になるのが、構造(しくみ)を伝えることです。

たとえば、こんなふうに。

- 世界にはたくさんの国があって、それぞれ考え方が違う  
- 違う考えの国どうしがぶつかることもある  
- だから話し合いが大事  
- 日本は話し合いを大切にしている国  
- 世界はつながっていて、遠い国の出来事も影響することがある  

こうした“世界の基本ルール”を知ると、  
子どもはニュースを怖がらずに受け止められるようになるはず。

■ 「自分の生活とつながる話」にすると理解が深まる
世界情勢は、子どもにとっては雲の上の話です。  
だから、生活に落とし込むと一気に理解が進みます。

- 世界がケンカすると、物の値段が上がることがある  
- 遠い国の戦争でも、地球はつながっているから影響が出る  
- 平和は“当たり前”ではなく、みんなで守るもの  

こうした話は、子どもたちの「自分ごと」につながるはず。

■ 不安を与えず、考える力を育てる
世界情勢を伝える時に最も大切なのは、  
子どもを不安にさせないことです。

そのために、まずは安心の土台をつくります。

- 「日本は今、安全だよ」  
- 「世界にはいろんな問題があるけど、大人たちが解決しようとしているよ」  

そのうえで、  
「じゃあ、私たちにできることは何だろう」  
と問いかけると、子どもは主体的に考え始めます。

■ 正解ではなく“視点”を渡す
世界情勢は複雑で、大人でも正解がわかりません。  
だからこそ、子どもに渡すべきは“答え”ではなく“視点”です。

- いろんな国があって、考え方も違う  
- 違いがあるからこそ話し合いが必要  
- 平和は努力で守られている  
- ニュースは怖いものではなく、世界を知るための窓  

この視点を持てる子は、将来どんな時代になっても強く生きられるはず。

■ おわりに
世界が揺れている今だからこそ、  
子どもたちには“世界を怖がらない力”を育てたい。

そのために必要なのは、  
事実を詰め込むことではなく、  
世界のしくみをやさしく伝えること。

そして、安心の土台をつくりながら、  
「どうしてだろう」「自分にできることはあるかな」  
と考える力を育てることです。

子どもたちが未来を生きる時、  
この“視点”がきっと大きな支えになります。



2025年12月31日水曜日

.1334〜ありがとう2025〜

またこうして、無事に一年を記録できそうです。  
業界の手詰まり感に辟易しつつも、第三極として立ち続けられるよう、視野を広くもち、後進の育成に力を注ぎ、課題を見つけては試行錯誤しながら解決へ向かう——そんな主体的な人を育てたいし、自分自身もそのロールモデルに近づけるよう励んでいます。

コロナは落ち着いたものの、インフルの猛威にはさらされましたが、それでもキャンプにフェスにと「外に出る」ことができました。  
フィルターバブルやアテンションエコノミーに囚われずに生きてこられたことにも感謝。  
生きていればきっといいことはある。旅はまだ進行形。イッツOK。だからもっとビートくれ。

そんなこんなで、今年も無事に過ごせました。  
家族も受験・卒業・入学と続く中、インフルに罹った時以外は元気に学校へ行けただけで十分。  

仕事は…まぁ、ぼちぼち。キリがないし、どこかで線を引かないといけないなという諦観めいた気持ちもありますが、家族を守り、子どもの成長のためにできることを模索し続けています。

「選択にそれほど意味はない。自分が選んだ道を正解にしていく」  
篠山選手のこの言葉を胸に、思慮深さを忘れず、スマホの縦長動画に時間と思考を奪われないよう気をつけつつ、2026年も健康でいたいものです。

……にしても、なぜ1/5に健康診断を入れてしまったのかwww

2025年11月22日土曜日

.1333〜あらためて「ロックオン!!」

川崎ブレイブサンダース。地元のチームの浮き沈みをリアルタイムで観られて、うーん…となってしまう日々です。  

ある記事に、選手が「コミュニケーションをあまり取らないコーチ。僕らのほうから話しかければ応えてくれるとは思うんですけど、彼のほうからは少ないので正直、何を考えているかわからない」と語っていました。成績不振の原因を探ると、そこに「自立・自律を育てる立場」としての難しさがあるように思えます。ライターの永塚氏も、記事の中で慎重に言葉を選んでいる様子が伝わってきました。  

勝てない原因は、戦術や技術だけではなく、コミュニケーションのあり方にもあるのかもしれません。けれど、だからこそ選手たちは自分たちで声を掛け合い、チームをつくり直していく力を試されているのだと思います。  

ブースターとして大切なのは「負けを見届ける覚悟」と「未来を信じる力」。勝敗に一喜一憂するだけでなく、挑戦を支える存在でありたい。声援は、選手の自律を後押しする環境そのものです。  

今は苦しい時期でも「次こそは」という期待を胸に、ポジティブに応援を続けたい。川崎の街とともに歩むチームだからこそ、浮き沈みをリアルタイムで共有できるのは幸せなこと。勝利の瞬間を迎えたとき、その喜びは何倍にも膨らむはずです。  

教育現場でも同じように、子どもたちの成長は「勝ち続けること」ではなく「失敗から立ち上がる姿」にこそ価値があります。ブレイブサンダースの歩みも、まさにその姿を私たちに見せてくれているのだと思います。