web記事で見かけた、中学校の部活動について語るある教員の言葉が、心に引っかかりました。
「いい加減だった子が学校生活をしっかり送れるようになり、野球のプレーまで変わった。その瞬間に立ち会えた時は教員冥利に尽きる」
この言葉自体は、現場で子どもと向き合ってきた教員の実感として理解できます。
子どもが変わる瞬間に立ち会えることは、確かに教育の醍醐味です。
しかし同時に、私はどうしても違和感を覚えました。
それは、子どもの成長が「教員の達成感」の材料として語られてしまっているように感じたからです。
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○子どもの成長は、教員の“成果”ではない
子どもが変わる瞬間は、本人の内側で何かが芽生えた時です。
教員はその環境を整えるだけで、主役はあくまで子ども自身。
にもかかわらず、「冥利に尽きる」という言葉は、子どもの変化を教員の手柄として回収してしまう危うさを含んでいます。
教育は本来、
「子どもが自分で考え、自分で選び、自分で責任をもてるようになる」
ための営みと思っています。
そのゴールは、野球のプレーが良くなることでも、 生活態度が改善することでもありません。
もっと先──社会に出てからの長い人生にあります。
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○部活動は“目的”ではなく“手段”のはずなのに
この教員はこうも語っています。
「学校生活をきちんとやりなさい。それが野球にも表れるぞ」
ここには、
生活態度の改善 → 競技力向上
という因果が前提になっています。
しかし、これは本来逆です。
- 学校生活を整えること
- 自分の行動に責任を持つこと
- 他者と協働すること
これらはすべて、
子どもが社会で生きるための基礎であって、野球のための手段ではありません。
部活動は、子どもの成長を支える“ひとつの場”にすぎない。
それがいつの間にか、部活の成果が教育の中心に置かれてしまう。
この逆転こそが、現場の働き方を歪め、子どもの成長観を狭めてしまう原因になっていると思います。
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○教員の本分はどこにあるのか
教員の専門性は、
- 授業
- 学級経営
- 教育相談
- 子どもの人生の基礎を支えること
にあります。
部活動はその延長線上にあるだけで、教員の存在意義を支える“主舞台”ではありません。
にもかかわらず、
「しんどくても続けている」「その瞬間があるからやめられない」という語りは、
部活を教員の自己実現の場にしてしまう危険をはらんでいます。
それは、
- 過剰労働の美談化
- 部活をやらない教員への圧力
- 子どもの成長の競技化
につながり、制度改革を阻む力にもなってしまう。
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○子どもの成長は、もっと多様で、もっと長い
中学生の成長は直線的ではありません。
- 伸びたり止まったり
- 失敗したり戻ったり
- 部活以外の場で花開いたり
そんな揺らぎの中で、
少しずつ「自分で考え、自分で選ぶ力」を育てていく。
その長いプロセスを支えるのが教育であり、部活動はその一部にすぎません。
だからこそ、
子どもの成長を“競技の成果”で語ることには慎重でありたいのです。
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○最後に──現場の教員と保護者へ
私は、部活動に熱心に取り組む教員を否定したいわけではありません。
むしろ、子どもに寄り添い、時間を惜しまず向き合う姿勢には敬意があります。
ただ、
子どもの成長を教員の達成感で語る構造
部活動が教育の中心になってしまう構造
には、立ち止まって考える必要がある。
子どものゴールは、
今日の練習でも、今週の試合でもなく、
もっと先の人生にあります。
その視点を忘れずに、
教育の本分を取り戻す議論を、
現場の教員も保護者も一緒に進めていけたらと思います。
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