恋愛リアリティ番組やアウトロー系コンテンツが話題になるたび、決まって「非行の美化」や「犯罪行為の矮小化」に対する批判が巻き起こります。
過去の過ちを「若気の至り」「やんちゃ」という便利な言葉でごまかし、安易な「更生美談」に仕立て上げる演出への違和感。そして、生身の人間を過激なキャラクターとして消費した結果、かつての『テラスハウス』のように激しい誹謗中傷を生み出しかねない危うさ。
こうした話になると「日本は遅れていて、海外を見習うべき」という極端な二項対立になりがちですが、問題の本質は国の優劣ではありません。現代のSNSや配信プラットフォームの「仕組み」が生み出している構造的な病理です。
1. 記号化される「更生」と、被害者不在の物語
人が過ちを省みてやり直す「セカンドチャンス」自体は、間違いなく大切です。しかし、番組内で描かれる更生劇は、往々にして「粗暴だけど実はピュア」というギャップ萌えのようなインスタントな魅力付けにすぎません。
実際の被害者の存在を置き去りにし、過去の逸脱をスパイスとして消費する姿勢に、多くの人が強い嫌悪感を抱いています。本当の更生とは、カメラの回っていない日常の中で地道に積み重ねる泥臭い営みのはずです。それを手軽なエンタメの燃料としてパッケージ化してしまう欺瞞が、いま問われています。
2. プラットフォームの「アーキテクチャ」という罠
ここで言う「アーキテクチャ」とは、『私たちが無意識に感情を動かされ、クリックしてしまうように作られた仕組み・設計』のことです。
たとえば「芝生に入るな」と看板を立てるのがルールなら、そもそも入れないように柵を作ったり、歩きやすい石畳の道を敷くのがアーキテクチャです。
現代のSNSや配信プラットフォームは、穏やかな対話よりも「怒り」「対立」「逸脱」といった強い刺激ほど拡散され、おすすめに浮上する設計になっています。制作側は数字のために過激な演出へと走り、視聴者はその悪役に怒ってSNSで叩く。つまり、私たちが反射的に怒ったり面白がったりして画面に釘付けになること自体が、プラットフォームの敷いたレールの上を走らされている状態なのです。海外でも同様の過激化と悲劇が繰り返され、法的な安全配慮義務が厳格化されてきた歴史があり、これは世界共通の課題です。
3. 批評家・宇野常寛氏の視座から考える「私たちの対抗策」
では、この過熱する劇場に対して私たちはどう向き合うべきでしょうか。
批評家の宇野常寛氏は、情報環境が人間の感情をハックし、単純な熱狂やバッシングへと動員していく現代の構造を一貫して批判してきました。この視座を借りるなら、私たちの対抗策は「ネット上で正義の旗を掲げて番組を叩き潰すこと」ではありません。その怒りや批判のリポストすら、プラットフォーム側のアクセス数を稼ぐ「動員」の一部だからです。
必要なのは、もっと静かで確実な防衛策です。
○タイムラインの速度から降りる
炎上に対して即座に「叩く」「擁護する」の二択に飛びつかず、意図的に思考のテンポを落とすこと。画面のスピードに巻き込まれない自律性を持つ。
○安易な「物語」を疑う
メディアが作った「元ヤンの美談」も「わかりやすい悪役」も、すべて都合よく切り取られた記号にすぎません。「人間はそんなに単純な話には収まらない」という複雑さをそのまま引き受ける醒めた目を持つこと。
○画面の外にある「自分の現実」を生きる
他人のスキャンダルや演出された疑似ドラマを覗き見して感情をすり減らすのをやめ、自分の足元にある日常、仕事、趣味、目の前の人との関係という「手触りのある生活」を取り戻すこと。
画面の中の過激さに怒り、タイムラインの喧騒に加わっている限り、私たちはプラットフォームの手のひらの上で踊らされているにすぎません。
……と、ここまでもっともらしいメディア批評を書き連ねてきましたが、ふと顔を上げると、私は真っ昼間から赤提灯の居酒屋のカウンターにいます。
目の前には、よく冷えた生ビールと、タレの染みた焼き鳥。
画面の中の「他人のドラマ」に眉をひそめて熱くなるより、目の前の焼き鳥が冷める前に頬張り、目の前の一杯をじっくり味わうこと。この「極めて具体的で手触りのある現実」に集中することこそが、現代の過剰な情報社会に対する、もっとも身近で実効性のある批評的抵抗なのかもしれません。
お代わり、頼みます。

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